重く生きていた僕が軽く生きるようになったのは、投影(シャドウ)を許したから

このブログタイトルは、「軽く生きる」

以前の僕は、軽くなかった。重かった。

真剣に生きないとダメになる、と思っていた。

真剣ってなんだろうと、辞書で調べると「1.本物の刀、2.まじめ、ほんき、直実」とある。

真剣に生きないと、に「なぜなら」と自問自答したら、

「父のようになってはいけない」と思っていた。

どうしてそう思ったのか?を探ると、

母が僕に言っていた言葉があった。

「あんなお父さんにならないで」

何が悪いのかよくわからないけど、

父は悪い人で、母は良い人、と「悪いもの対良いもの」の二面性の概念に囚われていた。

囚われていたというより、母からそれを学ぶ(母の言葉をそのまま自分に入れる)ことが良いことだと、二面性の概念を学んでいた。

そうしないと、小さい子供の僕の居場所がなくなってしまう怖さに直面すると思い込んでいて、

学んだ「悪いもの」になっては行けない、と、母の言いつけを守る良い人間にならないと、母の愛は注がれないから。

そう思い込んでいた。

そうして、父のことも大好きなのに、悪い人だとジャッジしていた。父にどうなん?という行動もあったが、それが父の全てじゃないのに、全て悪いで塗りつぶしていた。

例えば、本当はいろんな色があるのに、真っ黒なクレヨンで上から塗りつぶすように。

父の存在の解釈をそのままでなく、僕の心の内面を表現し、それを僕が見ていた。

まさに投影(シャドウ)だ。

その結果、僕の中にある「悪い自分はあってはならない、でも、実はある。だから、絶対に他人に見られないように秘密にしよう」となった。

人生においてなにかを秘密にしようとする(拒否する、意図的にごまかす、など)と、たちまちシャドウ(投影)が出現する。本当の自分をさらけ出すことへの恐怖として。(『シャドウ・エフェクト』より引用)

心理学を学び始めた頃は、投影を克服しようとしていた。

投影をなくす。と。

克服できるわけないのに。

ある時、気づいたのが、「父には、大好きな部分も、大っ嫌いな部分もある、良い部分も悪い部分もある」だった。

矛盾していい。

そう思ったら、肩の力が抜けた。

同時に「母も、大好きな部分も、大っ嫌いな部分もある、良い部分も悪い部分もある」だった。

この気づきがあることで、

自分の中にある「悪い(と思っている)自分」を抑え込む必要がなくなり、いつの間にか、自分の秘密を隠す”力み”が薄らいで、軽く生きるように変容していった。

例えば、小百合さんと会社経営を一緒にやっていると意見がぶつかることもある。以前は「ぶつかってはいけない」と思っていた。

なので、「クソだな、へっぽこだな」と言われた時に、凹んでいた。深刻に感じて言葉は受け止めるけど、相手の気持ちは受け止めていなかった。

最近は「そうだね、クソだよ、ポンコツだもん」と、相手や自分自身の気持ちを受け止めて、言葉は深刻にしないで、キャッチボールできるようになっているなぁと。

軽く生きるって、深刻にしないこと。

そのコツは、自分の秘密(投影)を自分自身に秘密にしないこと。良いも悪いも自分には両方あるし、自分を許してあげること。自分が自分に一番厳しいから。

Keep it real. 軽く生きよう〜

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