傾聴を学び始めたのが2018年だった。その時に、「理解できないことも含めて、受けとめること、内容を理解するより、心を開くこと」が大事と感じたと、過去のブログ記事に書いています。
いや、もっとカンタンに書けるのに、なぜ、こんな小難しい言葉を使っているんだろう、自分、、と、今は感じるのですが、、。
一言で言えば、「わからないから、聴かせてください」に徹することが、傾聴。
傾聴を学び始めた頃は、これの真逆を行っていて「わかろう、理解しよう」と思考で聞いていたんですよね。
思考で聞いていると、何が起きるのかというと、思考の中間領域に、自分が立っているので、
感覚を感じないまま、話されることを聞いちゃうのです。
聴くができなくなる。
なぜなら、聴くためには、聴いている自分自身が何を感じているのか、感覚を感じること、つまり、感覚を聴くことが傾聴なのに、思考で聞いていると、話されている人の感情や気持ちを、キャッチする余裕がない。
傾聴はアドバイスしない、とか、傾聴は寄り添うことだ、とか、言葉で、傾聴って何なのか?と探すより、
話を聴いている自分は、今、どんな感じなのか、感じ続けるのが傾聴だ。
なので、「わかろうとする」を手放して、「わからない」自分でも大丈夫。
話を聴くことと、わかることは、別のレイヤーというか、次元が違うから、大丈夫なんだと、自分の感覚を大切にする気持ちがあることが、傾聴に繋がる。
「わからない」となると、相手を蔑ろにしている、もしくは、自分に何か不足していると責める感じがないですか?
僕はありました。
でも、「わからない」にOK出さないと、世の中、わからないことだらけなんだから、居心地が悪いよね。
これは、学んで理解するのでなく、気持ちを感じてもらっている傾聴の体験をしたときの方が、グッと”からだ”に染み込んできた記憶がある。
こちらの記事で、感覚が大切とは、書いているのだけど、本当に、感覚が大切。
そして、その逆を頑張ることが大人になることと、勘違いしていたのも自分だった。
「わからない」は悪いことじゃない。
傾聴をしばらく実践練習した後に(多分 半年ぐらい)、この「わからない」が自分の中にあると、気づいた。
はじめはパニックだった。「わからない」とならないように、理解を頑張って話を聞いてきたのに、わからないところがある、、どうしたら良いのか?
「わかろう」と思うほど、「わからなさが大きくなる」感覚があった。
そう、「わかっている」と思うと、本当は何もわかっていないことに蓋をする。蓋をすると、話を語る人と、聞く人の間に溝というか、ズレが起きる。
そのズレたまま、話を聞くと、どんどんズレていく。傾聴の練習を始めた頃の自分と、さゆりさんの会話は見事にそんな感じだった。
なので、「力づくで寄り添って」傾聴をしている。そうすると、思考で理解することばかりになり、相手の気持ちを感じることなく、聞いている。
人は、相手の人に、自分の気持ちが通じると嬉しく感じる。
気持ちを大切にしたいと思っている。
なのに、思考レベルの傾聴だと、気持ちを全く聴いておらず、ストーリーばかりを聞いている。
ストーリーでも、聞いてもらえないよりは、聞いてもらえる方が、嬉しいし、スッキリするが、
自分の中にある、気持ちが、その傾聴では、「場」に表現されない。
すると、なんだか、モヤっとしたままになる。
「わからない」を大切にして、相手の話にどんな話題があっても、「わからないまま、受け止めていく」ことが傾聴になる。
「わからない」を大切にするから、話している相手の気持ちを感じられる、そして、違和感にも気づける。
「わからない」に立ちづつけるから、「それはどういうことですか?」と質問できる。「わかった(つもり)」になると、「そんなことも理解できないのか?」という批判への恐れが怖くて、聞けなくなる。
傾聴は「わからない」を大切にすること。
「わからない」という所から、相手に興味を持ち、もっと知りたい、感じたいと願うこと。
「わからない」は悪いことじゃない。
Keep it real. 軽く生きよう~