いやー、びっくりした。
写真は、写経を薬師寺別院さんにて行ったときの1枚。
凄い気づきが来たよ。
言うならば、おもっきり図と地の反転。
アハ体験というか、そんな感じ。
はい、何があったのか、お話ししますね。
まずは、ここに至るまでの流れとして。
先月10月に、東京国立博物館で開催されていた「運慶」展に行った時のこと。
昔から大好きな無著像・世親像の音声ガイドを聞いていたら、あ、そうそう、この音声ガイドが俳優の髙橋一生さんのお声で、それも嬉しかったんだけど。
ここで、唯識という言葉に出会った。
「この世のあらゆるものは、ただ己の心が外にあらわれたもの。心の働き、心のありようを説くのが、唯識です」
という言葉から、唯識を知って、いろいろと本を読んで勉強して、問いと共に過ごしていたら。
人間の認識は、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識の8つと、説かれていて。
末那識、阿頼耶識は、今で言う潜在意識であり、まあ、よーわからんわけで。
いろいろと読んで、そこから、僕の解釈だと、末那識は思い込みや決めつけを含む自分の価値観や信念だなぁと感じた。
そして、阿頼耶識は、LPLで学び続けている「在り方・Being」だなあと、感覚で感じていて。
で、たまたま読んでいた文章(WEBのね)に、阿頼耶識とは、自分は存在するという確信と書かれていて、まーそうだよねーと思いながら、読み進めると。
「阿頼耶識というのは、自分という存在のベースとなるもの」と書かれていて、うんうん、そうだねー在り方やねーと感じながら。
次の文字を読んでいたら、ここで、衝撃。
からだが雷に打たれたような、まあ、実際には打たれたことないけど、そんな感じ。
何が書いてあったのか?
「自分が存在しなければ、価値観や信念も存在できない。」
そう、自己否定の思い込み(ビリーフ)があることで、苦しかったり、モヤモヤしたり、して来た、自分なんだけど。
阿頼耶識の「自分の存在があると確信している、しかも無意識に」しているから、末那識の「価値観や思い込み(ビリーフ)」が成り立つ、わけで。
えーと、つまり、否定は存在している確信があるから成り立つ、わけで。
自己否定ビリーフのように、こんな自分じゃダメだ、という、自分という存在の確信がなければ、「じゃ、誰の思い込みなん?」「自分じゃないんじゃないの?」じゃ、この思い込み(ビリーフ)、宙ぶらりんで、ただ、思い込み(ビリーフ)があるだけで、自分から浮いているというか。
ただ、思い込み(ビリーフ)が、道端に転がっているだけで。
だったら、思い込みじゃないわけで。
自分と思い込み(ビリーフ)が一心同体に、自己同一化してるわけで、いろいろ不具合とか、息苦しさとか感じるのだけど。
根底では、自分の存在を確信しているから、こそ、一心同体に自己同一化しちゃうわけで。
じゃ、自分の存在を確信してるんだから、いいやん(笑😆)
あれ、なにやってんだ、じぶん。
存在を確信してるんだったら、それでいいやん♪
と、自作自演のループやめたらいいやんと。
いやーびっくりした、そうだよねー。
まあ、解説の文章はさらに、「諸法無我」であり常に変化するし、その確信している自分という存在も常に変化し、阿頼耶識によって自分を確信しているだけなので、自分の存在がないことに気づくことであると続くのですが、まーとりあえず、そこまで一気に行かなくても。
思い込み(ビリーフ)は、自分の存在を確信している土台の上で、自分と自己同一化しているのだから、確信している自分の存在の土台の上で、自分が自分をどう扱うか、自由にすればいいし、どう扱っても、確信している自分の存在がある。
そして、その先に、その確信している自分の存在があるから、他者もあるし、その存在の土台のさらに土台が常に変化しているから、自分の存在も実は変化していて、そうなると、自分が確信している存在も変化している、いや、存在していない、という問いの先が悟りへ続くとの説明されているのだけど。
まあ、自分を否定している思い込みが、自分の存在の確信の土台があるから。
ということは、自己否定ビリーフを感じたりモヤモヤしたら。
自分の存在を確信している、自分なんだー。
へーそうなんだー。
と言っていいわけで、それでいいわけで。
というのは、びっくりする気づきだったわけ。
ということで、今の感覚を言葉に書いて綴り、置いておく。